つぶやき。

都内某大学に通う医学生。考えたまま書きます。

義務教育の必要性とは?

久しぶりの投稿です。

しばらくブログから離れていましたが、また書きたいこと、伝えたいことが見つかったので投稿させて戴きます。

 

今回も教育論について・・・。

 

日本の教育システムは皆さんご存知の通り、小中9年間が義務教育。高校は3年間、そして高等教育として大学や専門学校などがありますね。

皆さんはなぜ義務教育が小中学校9年間なのか考えたことがあるでしょうか。

 

私は堀江貴文さんの著書や記事が好きで、頻繁に読ませていただいております。その中で今日は皆さんにご紹介したい新書が1冊。

光文社新書「すべての教育は『洗脳』である」というものです。

堀江さんの著書ですので少し過激なことも書いてありますが、日本の教育に疑問を抱いている方には是非読んでいただきたいと思います。

内容を簡単に要約するならば、「学校とは本来、国家に従順な国民の養成機関であり、その洗脳によって『使いやすい労働者』を大量生産するための工場みたいなものである。そんな下らない洗脳を受ける必要などない。自分のやりたいことに没頭せよ。」というような内容です。

 

さてなぜ義務教育なんてものがあるのでしょうか。

多くの社会人に、「義務教育で学んだことが社会に出て活かされてますか?」という質問を投げかけると、多くの人が「半分くらいは役に立たないことだ」という意見が返ってくると思います。

例えば、私は高校受験を控えた中学生に塾で理科や数学の講師をしておりますが、特に中学の理科なんて社会で役に立つことが少ないですよね。

医学部に通う私でさえも、夏の大三角形なんて使うわけないし、植物の分類とか、岩石の分類とか、なんの価値があるのだろうと思ってしまいます。

 

上記のような内容を人は「教養」という言葉で片付けます。

「あなたはなんでも知っていて教養があるねえ」

「そんなことも知らないのか。君は教養がないねえ」

 

こういう下らない言葉を発する人には是非問いたい。

あなたにとって「教養」とはなんですか?

 

するとほとんどの人はこのように答えるでしょう。

「教養」とは「知っておかないと恥ずかしい知識」であると。

 

確かに社会でのコミュニケーションにおいて教養はツールにはなるでしょう。

ただそのツールは教養でないと本当に会話は成り立たないでしょうか。

ビジネスの世界においては、相手も自分と同じ土俵に立つ人間が多いわけで、

ビジネスのツールとしては教養よりも、お互いが精通する専門的な分野の会話の方が、よっぽどツールとしては役立つし必要なのではないでしょうか。

 

そしてもう一つ大事なことが、教養と教養でない事柄の境界は一体何処に引かれているのでしょうか。

私にもこの境界は分かりませんし、人によってこの境界線は異なるでしょう。異なるならば、あなたが教養だと思っていることは、隣の人には教養とは言えない内容かもしれない。そしてその逆もしかり。よって個人差があるということです。

つまり、言い換えれば、

この世界の事柄は、「全て教養であり、全て教養ではない。」ということです。

義務教育が教養を学ぶ過程だと考えているならば大間違えです。

 

では義務教育はなんのためにあるのか。

 

1つは「子どもに何かしらの興味を沸かせるため」だと私は考えます。

ことわざで「好きこそものの上手なれ」という言葉があります。英訳する"What one likes, one will do well."ですね。

ヒトは自分のやりたいことには極めて没頭する動物です。というか、動物はみなその本能を持っています。

そしてやりたくないことはどうしても没頭することができません。

何かに没頭している時、人は究極の快楽を得られます。

いわゆる「仕事が大好き」な人は、自分のやりたいことに没頭できている証拠です。

塾講師なんて仕事をしていると、あふれるほどこんな子どもがいます。いわゆる「理系は得意だけど文系は苦手」みたいなやつです。

しかしこれは間違っています。「得意・不得意」ではなく、「好き・嫌い」です。

理系が好き・興味を持てるから没頭するので得意なる。文系が嫌い・興味を持てないから没頭できないので苦手になる。

そしてこれに対する一番間違っている教師側の答えが

「君は文系が苦手だから、文系に力をいれよう」

こんな他愛もない言葉で生徒の成績が上がるなら教師なんていらないし、模擬試験の結果についてる味のないアドバイスと何ら変わりません。

第一にこの子は文系が苦手なわけではなく、嫌いなのです。

 

私は一応進学塾の講師で、志望校に合格させることが使命ですので、この生徒が文系科目にどうしたら興味を持ってくれるか考えますが、1人の教育者の本音としては、大好きな理系をもっと伸ばして将来に活かして欲しいと思ってます。

ここで私自身の話になりますが、自分もまさしくこんな子どもで、大好きな化学や数学は得意だったけど、特に英語や国語などの語学や社会の公民には全く興味が持てず、何度も学年最下位を叩き出した記憶があります。

それでも今現在医大に通っていて、英語や国語で必要なことなんて、英語は中学レベルの文法と単語力、国語に至っては小学生レベルの漢字と文法くらいで、ましてや高校で習った古文漢文なんて何の役にも立ちません。

しかしやっぱり、数学は高校で学んだ微分積分が医学統計や公衆衛生において活かされるし、化学は薬物の作用機序などにおいて非常に活かされてます。

 

そして子どもと大人の大きな違いは、必要なことを見つけるための判断力です。加えていうなら1人で生きていくための危機管理能力です。

先ほども述べたように私は子どものころから全く政治・経済・社会というものに興味を持てず、ほったらかしにしてきました。

今でもそれほどその分野に興味はありません。しかし、税金・世界経済・政治などの根本の知識がないと、将来1人で社会に出て、必ず損をするだろうという危機感が最近湧いてきて、ようやく自習するようになりました。恥ずかしながらかなり遅いとは思いますが。

 

私が思うに、義務教育を15歳の中学までに設定しているのは、この9年間で「自分の好きなこと・興味が持てることに没頭する快楽を経験するため」、そして「16歳を超えれば1人で生きていくというある種の危機感が生まれだし、自分のために自然と学ぶ力が身につくため」であると考えます。

 

そしてもう1つ。いわゆる学習とは少し異なりますが、「社会で生きていくためのスキルを身につける場」だと考えます。

普段子どもたちと接していてとにかく違和感を覚えること。

それは10歳くらいしか違わない子どもたちなのに、自分の10年前とえらいギャップがある点です。

現代の日本の小学生は当たり前のようにスマホを持っています。私が小学生の時はキッズ携帯でしたし、私より10歳上の世代は小学生時代にようやくインターネットが普及するようになったくらいでしょうか。

つまり今の小学生は「ググる」ことが当たり前のようにできます。

正直言って、小中学校で学ぶことなんてググればすぐに出てくるし、2秒で調べられます。

もっとアナログな考え方でも、塾に行けば一通りのことは教えてくれるし、クモンに通えば、小学生で微分積分も高校レベルの英語だってできるようになります。

別に学校の授業なんて皆さんの言う教養を学ぶ上ではもう必要でない時代に、ここ十数年で入っていると言えるでしょう。

 

ではなぜ9年間もの長い間学校に拘束されなければいけないのか。

 

昔から小中学校で頻繁に問題となるのは、いわゆる「いじめ」ですよね。

私から言わせてもらえば、小学校でいじめが起こるのは自然なことです。小児精神学の分野になりますが、ヒトの人間としての脳(=精神)の発達は10歳程度で完成すると考えられております。つまり小学校高学年です。言い換えればそれ以下の子どもは精神的にはサル同様です。教わらなければ本能のままに生きます。

相手と比べて自分が高い地位に立とうとするのは動物の本能です。我々大人はその本能を仕事や成績などに置き換えますが、小学校低学年の子どもたちにとってそれは必ずしも成績にはなりません。その結果いじめや喧嘩が起こるのはある意味自然なことです。

ただこれをそのまま放置しておいては何も成長しませんので、先生が道徳を説くわけです。

つまり私は、小学校は人間としての精神力を鍛える場、そして中学校は精神的には大人として、将来社会に出て行くためのコミュニケーション能力や忍耐力など、様々な精神力を鍛えるために、部活仲間・友達と上手く生活を送って学ぶ場であると考えます。

にもかかわらず、高校でいじめ問題が発覚するのが日本の現代の大きな問題です。

学校の先生方には、勉強だけでなくこういった、大人としての生き方なんていうものを是非子どもたちに植えつけて欲しいなと思います。