新しい生活様式を自ら生み出そう
発生から7ヶ月。未だに感染拡大は止められず、東京も1日数百人の感染者が連日確認されており、完全な第2波の到来とも言えるでしょう。
日本では感染者が4万人を超え、世界では1800万人の感染がこれまで確認され、死者は世界で69万人と三大感染症のマラリアの年平均死亡者を超えました。
パンデミックが始まってから半年、未だに不明なことが多い新型コロナウイルス。第1波が過ぎ去り緊急事態宣言が解消されてから、我々の新型コロナに対する恐怖や不安は個人差がかなり広がってきたと思います。
今回、私が伝えたいこと。それは未知のものに対して正解はないということです。
学問なら何でも、発見・開発されるまでは正解を探し求めます。何も分からないことに対して正解の答案などありません。
ただ人間はどうしたら正解に辿り着けるかは考えることができます。
私も一応医学を4年間学んできましたが、未知のウイルスに対して何か革命的な発見をすることなど到底できません。しかし、これまでの様々な情報から正解にたどり着くための発想ならできます。これは医学を全く知らない素人でもできることです。
まずはこれまで判明した事実と基礎知識だけまとめます。
・今回のウイルスはコロナウイルスという種類で、SARSやMERS、そしていわゆる風邪の原因となるウイルスの25%と同じ種類である。
・SARSの死亡率は約10%、MERSの死亡率は約35%。新型コロナウイルスの死亡率は日本ではこれまでのところ数%。世界的に見てもSARSやMERSほどの死亡率は高くない。
・一方感染率はSARSの感染者が約8000人、MERSの感染者が約2000人、に対して新型コロナウイルスの感染者は現段階で1800万人で感染力は圧倒的な強さ。
・感染様式は飛沫感染か接触感染の説が有力。空気感染の可能性は低いと考えられている。
・最も初期症状の近いインフルエンザと比べると、日本のインフルエンザの年間罹患者数は約200万人、致死率は0.001%で高齢者の致死率は0.03%。新型コロナウイルスでは日本で致死率約4%であるが、80代以上で28%、70代で14%とSARSやMERS並みに高いが、30代以下の致死率は0.1%と年齢別で差が大きい。
・ウイルス感染後は体内に抗体(獲得免疫)が産生され、再度ウイルスが体内に侵入しても感染しないように防御する機能があるが、新型コロナ感染後約数ヶ月でその抗体が既に消えている人もいる。一般的な風邪の原因となるウイルスに対する抗体の保持機能は約1年と言われている。つまり抗体維持力は風邪のウイルスと大差ないと考えられる。
・肺炎といえば、肺炎球菌などの細菌感染による定型性肺炎と、ものが気道に誤って入ってそこから炎症を起こす誤嚥性肺炎が有名。肺炎は日本でも未だに死因第5位に必ず入るようなポピュラーな疾患だが、このほとんどの死者は高齢者で若者が肺炎で死亡することはほとんど稀。
さてここまで確認していくと、今回の新型コロナウイルスがどれだけ厄介かが分かりますよね。
一般的に致死率が危険な感染症はそれほど感染力が強くなく、致死率が低い感染症(風邪や季節性インフルエンザ)は感染力が強い。しかし、新型コロナは致死率がある程度高い割に感染力もかなり強い。感染力の強さがどれだけかは数値的に出ているわけではないですが、あれだけクラスターが発生しているということはある程度強い感染力を持っているはずです。皆さんもこれまで一緒に会食してた人がインフルに感染していて、自分を含めその会食に参加してた数名も感染してしまったなんて経験があると思います。私はインフルエンザと同じくらいの感染力、あるいはそれ以上の強さはあると推測しています。
小池都知事のいう「with コロナ」の時代。どのように注意していくべきか。
感染症で一番手っ取り早いワクチンも、日本で接種が一般に開始されるのは早くても来年でしょう。ちなみにSARSやMERSなどのコロナウイルス系のワクチン開発はこれまで成功例はありません。実は未だにMERSのワクチンは開発されていないのです。まあ需要がなかっただけかもしれませんが。(SARSは既に根絶されていますがMERSは今でも少数ですが感染例があります)
少なくともあと半年はこの感染症と戦っていく必要があります。いつまでも自粛を続けていたら経済が回らないし、過度な自粛は経営がうまくいかなくなった人々を自殺に追い込みます。コロナでの死者を1000人に抑えられても、コロナ関連の自殺や、検診に行かないことで起こる癌の発見遅延による死亡者が著しく増えたら、それは結果的にマイナスかもしれない。
第1波の収束から、何も考えずに歩き回る若者が増えた気がしますが、本当にこのウイルスの怖さを知らなすぎます。若者でも感染したら1000人に1人死にます。感染力を同程度とすれば、リスクは単純計算でインフルの100倍です。しかもインフルはワクチンを打てます。コロナにワクチンは今のところありません。インフルより数百倍やばい感染症が流行っているのに何も対策をしないのはハッキリ言って自殺行為です。それか相当なドMか。
もし自分が感染して、高齢者にうつしてしまえば、その高齢者は2割の確率で死にます。高齢者と一緒に暮らしているということは、自分が感染したら2割の割合でその家族は死ぬし、高齢者が多いような職場で働いているなら、その職場の高齢者は2割死にます。
私も普段から週に3回は飲みにいくようなアウトドアな人間です。自宅なんてコロナが流行る前までは寝るだけの場所同様でしたが、この4ヶ月間他人との会食なんて1回もしてません。ある意味幸運なことに私にとって今年の上半期は試験オンパレードで勉強が忙しいというのもありますが、それを考慮しても外出頻度は本当に低いです。試験が落ち着いたら自分なりの感染対策で外出しようと思っています。飲みにも行きたい。
飛沫感染であることを前提に言えば、会食だって、対面で座らず横並びで、食べている間は無言、食べ終わってからマスクして横で話す分にはそこまで感染リスクはないはずです。
その根拠に、あれだけ自粛期間中バッシングを受けていたパチンコ屋でクラスターってこれまで報道されてますか?
私はパチンコやったことないですが、多分パチンコ屋で喋りながら打ってる人は少ないでしょうし、パチンコは考えてみれば横並びですよね。
例えば友達と3人でご飯に行って、カウンターで横並び、食べている間は無言、食べ終わったらその横並び状態でマスクして話すなんて、なかなか変な光景だし、側から見れば違和感しかないですが、これが今の時代のスタンダードになれば良い。
カラオケだってマスクしてフェイスシールドつけて歌えば、感染リスクはほぼないでしょう。なんか恥ずかしいかもしれないですが、それがスタンダードになればいい。
これまでのスタンダードを変えるということはかなり抵抗があることは確かです。人間なかなか変化を受け入れられない動物です。
でも今回の流行でマスクはかなり風変わりしましたよね。手製のマスクもこれまではちょっと恥ずかしかったけど、今は様々なタイプがオシャレとして受け入れられてます。(アベノマスクはあんまり浸透しないけど笑)
コロナが流行り出してから半年。収束する見込みは未だありません。
国に文句ばっかり言っても別に収束するわけではありません。
健康に生きていくためにも、私たちは自分で考えて、変わりゆく時代の流れに対応していくのが、今もこれからも最善だと私は思います。
不安を批判に変える正義感
新型コロナウイルスの第1波は少しずつ収束しつつある。東京都での22日の新規感染者は3人と緊急事態宣言後最少となった。過去7日間の全国感染者平均も34人と、確実に落ち着いて来ているし、何よりも全感染者中に占める回復者の割合がかなり上昇してきたのも、まずは医療崩壊をギリギリ免れたと言っても良いだろう。
少しずつ気が緩み始めた方も多いだろう。経済活動再開のためにも人の動きが徐々に増えていくことは、悪いことではない。感染者が少なくなっても、経済が回らなければ、失業者で溢れ、路頭を迷う人が現われて、最終的にはコロナ死亡者よりも自殺者が増えてしまうかもしれない。現に、日本の失業者はここ最近で1万人を突破した。またWHOによるとコロナによる小児予防接種の延期の影響で、世界で1日あたり6000人の子どもが亡くなる可能性があるという。
さて、未知の感染症への不安から問題となっているのが、「自粛警察」と呼ばれるような行為、、感染者への心無いバッシングや個人情報の許されるまじ公開、そして医療従事者への偏見差別だ。この状況の中、飲食店業界などは窮地に追い込まれていることだろう。感染予防に全力に取り組みながら、そして自分も感染してしまうかもしれないという恐怖と戦いながら営業を続ける店舗への脅迫文や営業妨害は、店舗を運営するスタッフ、オーナー、そして全ての飲食業を営む人々への暴徳でしかない。感染者の多くは、人並みに気をつけながら生活していた人々だろうし、医療従事者は感染と隣り合わせの状況の中、必死に救命活動を行なっている。私の先輩の研修医の先生からも、直接的に感染者病棟で働いているわけではないが、マスクやガウンなどの衛生用具の不足により、厳しい状況にあるという意見をうかがった。
未知の感染症への不安はどうしても他人への偏見や差別で解消されようとする。人間はどうしても脳の構造上、自分と間違った意見や行動に対して、批判・非難することで正義感や快感を得る。これは芸能人の不倫が報道されたときに、SNSでバッシングする行為が1つの例である。私は未婚者だし、不倫に対して意見を述べる立場ではないのかもしれないが、不倫は悪いこととはいえ、日本の法律上刑罰に値することではないし、ほとんど無宗教の日本にとって、宗教観念を破ることでもなければ、不倫したからといって犯罪者になるわけでは全くない。しかし、人気芸能人が不倫スキャンダルを報道されると、顔を見たこともないような人がSNSであたかも当事者のようなバッシングを浴びせる。
今回の自粛警察による心無い行為も、この心理に由来するものであろう。「自分がこれだけ感染対策をしているのに、酒を提供しているとは何事だ。」「公園で子供を遊ばせるんなんて何事だ。」心無い行為なんて可愛いものではなく、場合によっては刑事罰となるような事例もあった。子どもが多く集まっている公園の砂場に刃物やガラスが巻き散らかされたという事案もあった。豊島区職員が自粛警察で飲食店を脅迫し逮捕される事件も今朝報道された。
4月中は日本全国で感染のピークにあり、日本人のコロナに対する危機感もかなり団結していただろう。しかし現在、緊急事態宣言も1都3県と北海道以外解除され、全国的に危機感の一致がなくなってきている。もう大丈夫だろうと普段に近い生活に戻りだしている人もいれば、まだまだ不安が残り、今でもスーパや犬の散歩などの必要最低限の外出しかしていない人もいる。この国民の意思のばらつきは、今後さらに拡大する可能性が高いし、地域によっても差が出てくるだろう。
自分と異なる考えはどうしても許容できないことが多い。今は家族の中でも少しずつ危機感の違いが浮き彫りになる時期である。1億人いれば1億人の考え方があり、それぞれの危機感や不安や1億通りあるだろう。未だ緊急事態宣言が解けていない1都3県+北海道も宣言解除向けて様々な策を練っている。その内容はそれぞれ少しずつ違う。どうしても批判や批評がしたいなら、近所の飲食店なんて狭い視野ではなく、もっと大きな枠を見つけ、国や都道府県の対応に耳を向け、自分なりに考えてみたらどうか。
1人のヒトとしてコロナと戦う
人間は未知のものへの恐怖心を抱く習性がある。
昨年末、中国・武漢で原因不明の肺炎死亡者が多発してから3ヶ月。
今では、1日でコロナという言葉を聞かないことはなくなった。
これが感染症の恐怖。
あっという間に世界に蔓延してしまう。
私も医学生として、2020年初頭から新型ウイルスCOVID−19の情報をあらゆる手段を使って追ってきた。
だが、世界で100万人近い感染者を出しているにもかかわらず、未だにこのウイルスの謎は深い。
この春から医学部4年になる自分。
つい2週間前までは正直、都知事がこの頃頻繁に言葉を使う「若者」の1人であった。
もちろん1人の医大生として健康管理には十分に気をつけていたが、年度終わりのシーズン、そして勤務先の塾が1ヶ月の封鎖を余儀なくされ暇を持て余していたこともあり、ある程度自粛はしていたものの少々夜お酒を飲みに行く機会もあった。
しかし、都知事からの外出自粛要請、有名タレントの死、止まらない都内の感染者の増加。
1週間前より、私も不要不急の外出は出来るだけ避けている。
そして家で過ごす時間が増えた今、未熟ながら1人の医大生として、そして1人の日本人として一体何が出来るだろうかとふと考えた。
今日は思う存分、暇な時間を情報発信に費やそう。
第一に少ない知識ながら新型コロナウイルスについて、、、
ウイルスは細菌とは異なり、感染宿主(生物)がいないと生存できない。細菌の場合、ほかの生物がいない場所でも生存できる。今回のウイルスの場合、基本的に感染宿主はヒトが主で、一部動物にも感染することが判明している。
また今回のCOVID−19は飛沫・接触感染を感染経路とする。
つまり都市封鎖を行い、1人1人が接触することがなくなれば、、、
ある程度ウイルスを死滅させることに繋がる。
ウイルスにとっては、ヒトが密集している状態が繁栄のための最大の徳であるのだ。
そしてコロナウイルスについて
コロナウイルスは、いわゆる「風邪」の原因の約25%を占めるウイルスで、近年の有名な例で言うと、2003年に中国などで流行したSARS(重症急性呼吸器症候群)や2012年に中東で感染が始まったMERS(中東呼吸器症候群)などがある。
統計的なデータを見てみると、
SARSの感染者は約8000人で致死率は約10%。MERSの感染者はこれまでに約1500人で致死率は35%である。SARSは既に終息宣言が出ているが、MERSに関しては今でも多少の感染報告がある。
2つのウイルスの感染経路はどちらも飛沫・接触感染で今回の新型ウイルスと同じだが、感染力はそれほど高くなく、MERSに関しては市中感染は認められていない。
ここで新型ウイルスのデータをみると、感染者は3/30現在で約70万人、死亡者は3万3000人で、単純計算すると約4.7%である。
イタリアなどでは感染者10万人に対して死者は1万人に及び、致死率は約10%となっている。
つまり、感染力はSARSよりも高いのにもかかわらず、致死率はそれほど変わらない。
基本的にウイルス感染症というものは、致死率が高いものほど感染力は低い。なぜかというと、感染宿主のヒトが死んでしまえば、ウイルスもまた生きてはゆけないからだ。
よってここから推測出来ることが一つ。
新型コロナウイルスに感染しているが症状の出ていない者(不顕性感染者)が相当数いる可能性がある。
死亡者数は必ず正しいが、感染者数は必ずしも正しいとは言えない。
そうでなければこの感染力とこの致死率が同時に生まれるはずがない。
つまり今この記事を書いている自分も、そしてこの記事を読んでいるあなたも、あなたの隣にいる家族も友人も、気付いていないだけで感染している可能性はかなり高い。
今でも毎日のように電車通勤を余儀なくされている人や、毎日のようにクラブなどで遊んでいる若者はより高いだろう。
ここでPCR検査というものに焦点を当てよう。
本邦でもPCR検査は毎日数千件のペースで行われている。
仮にPCR検査の感度・特異度が99%以上であったとすると、ここまで述べてきたことと矛盾する。
PCR検査は無論、感染が疑われる人が受けているはずだ。
もし感染力が私がここまで述べた通り非常に強い(例えば既に日本の感染者は1万人以上いる)ならば、PCR検査陽性例がもっと出てもおかしくはない。しかし、検査で陽性が判明するのは1日あたり10人に1人だ。
私の推測を信じるか、PCR検査の感度・特異度を信じるかはあなた次第だが、
これまで報道されてきている、再陽性例や再燃例などを見ている限り、そこまで信頼性が高いものとは私は思えない。
不安を煽るような記事をここまで書いてきたが、もちろん恐怖を味わせるために書いているわけではない。
では感染している可能性のある私たちがすべきことは一体なんであろうか。
それは自分が感染者だと思ってこれからを生きることだ。
もちろん、もし仮に感染していたとしても、発症しなければ自分が死ぬことはないし苦しむこともない。
しかしあなたの飛沫を受けることで隣の人は苦しむかもしれない。
幸いなことか分からないが、このウイルスに感染しても8割は軽症や無症状で、2割が重症化すると言われている。
だが若者だから死なないとか、基礎疾患がないから重症化しないなんて保証はどこにもない。
現に欧米では20〜40歳の重症例がかなり報告されている。
一つ投げかけたい問いがある。
過去にインフルエンザと診断された時、あなたはどのような生活を送っていましたか。
多くの人は自宅で静養していただろう。インフルエンザの場合、最初の2日間くらいは発熱と倦怠感で非常に苦しく家から出ることもままならないが、それ以降は熱も下がり徐々に体力も回復してくる。日本ではでインフルエンザに感染した場合感染症法により、解熱後2日間または感染後5日間は就業禁止である。熱が下がった時、どうしても食べ物がなくてコンビニやスーパーに行くこともあるだろう。
その時にマスクをしない人はいないだろうし、もしうつしたら申し訳ないという気持ちで外出し、最低限の時間と接触で帰宅するはずだ。
これから我々がどのように生活したら良いかはそういうことだ。
どんなに元気でも、無症状でも、自分が感染しているつもりでマスクをする、できるだけ人との接触を控える、ましてや不要不急の外出なんてすることはおかしい。
もちろん私自身もカフェや塾でアルバイトをしており、もし感染者だとしたらコーヒーを飲みに来るお客さんを、大切な生徒たちを苦しめる可能性だってある。
明るい未来が開かれるためにも、少しでもできることをしよう。
マスクや手洗いうがい、アルコール消毒、飲み会自粛だって、ちっぽけなことに思えるが、その行動1つで、1つの命を救えるかもしれない。
義務教育の必要性とは?
久しぶりの投稿です。
しばらくブログから離れていましたが、また書きたいこと、伝えたいことが見つかったので投稿させて戴きます。
今回も教育論について・・・。
日本の教育システムは皆さんご存知の通り、小中9年間が義務教育。高校は3年間、そして高等教育として大学や専門学校などがありますね。
皆さんはなぜ義務教育が小中学校9年間なのか考えたことがあるでしょうか。
私は堀江貴文さんの著書や記事が好きで、頻繁に読ませていただいております。その中で今日は皆さんにご紹介したい新書が1冊。
光文社新書「すべての教育は『洗脳』である」というものです。
堀江さんの著書ですので少し過激なことも書いてありますが、日本の教育に疑問を抱いている方には是非読んでいただきたいと思います。
内容を簡単に要約するならば、「学校とは本来、国家に従順な国民の養成機関であり、その洗脳によって『使いやすい労働者』を大量生産するための工場みたいなものである。そんな下らない洗脳を受ける必要などない。自分のやりたいことに没頭せよ。」というような内容です。
さてなぜ義務教育なんてものがあるのでしょうか。
多くの社会人に、「義務教育で学んだことが社会に出て活かされてますか?」という質問を投げかけると、多くの人が「半分くらいは役に立たないことだ」という意見が返ってくると思います。
例えば、私は高校受験を控えた中学生に塾で理科や数学の講師をしておりますが、特に中学の理科なんて社会で役に立つことが少ないですよね。
医学部に通う私でさえも、夏の大三角形なんて使うわけないし、植物の分類とか、岩石の分類とか、なんの価値があるのだろうと思ってしまいます。
上記のような内容を人は「教養」という言葉で片付けます。
「あなたはなんでも知っていて教養があるねえ」
「そんなことも知らないのか。君は教養がないねえ」
こういう下らない言葉を発する人には是非問いたい。
あなたにとって「教養」とはなんですか?
するとほとんどの人はこのように答えるでしょう。
「教養」とは「知っておかないと恥ずかしい知識」であると。
確かに社会でのコミュニケーションにおいて教養はツールにはなるでしょう。
ただそのツールは教養でないと本当に会話は成り立たないでしょうか。
ビジネスの世界においては、相手も自分と同じ土俵に立つ人間が多いわけで、
ビジネスのツールとしては教養よりも、お互いが精通する専門的な分野の会話の方が、よっぽどツールとしては役立つし必要なのではないでしょうか。
そしてもう一つ大事なことが、教養と教養でない事柄の境界は一体何処に引かれているのでしょうか。
私にもこの境界は分かりませんし、人によってこの境界線は異なるでしょう。異なるならば、あなたが教養だと思っていることは、隣の人には教養とは言えない内容かもしれない。そしてその逆もしかり。よって個人差があるということです。
つまり、言い換えれば、
この世界の事柄は、「全て教養であり、全て教養ではない。」ということです。
義務教育が教養を学ぶ過程だと考えているならば大間違えです。
では義務教育はなんのためにあるのか。
1つは「子どもに何かしらの興味を沸かせるため」だと私は考えます。
ことわざで「好きこそものの上手なれ」という言葉があります。英訳する"What one likes, one will do well."ですね。
ヒトは自分のやりたいことには極めて没頭する動物です。というか、動物はみなその本能を持っています。
そしてやりたくないことはどうしても没頭することができません。
何かに没頭している時、人は究極の快楽を得られます。
いわゆる「仕事が大好き」な人は、自分のやりたいことに没頭できている証拠です。
塾講師なんて仕事をしていると、あふれるほどこんな子どもがいます。いわゆる「理系は得意だけど文系は苦手」みたいなやつです。
しかしこれは間違っています。「得意・不得意」ではなく、「好き・嫌い」です。
理系が好き・興味を持てるから没頭するので得意なる。文系が嫌い・興味を持てないから没頭できないので苦手になる。
そしてこれに対する一番間違っている教師側の答えが
「君は文系が苦手だから、文系に力をいれよう」
こんな他愛もない言葉で生徒の成績が上がるなら教師なんていらないし、模擬試験の結果についてる味のないアドバイスと何ら変わりません。
第一にこの子は文系が苦手なわけではなく、嫌いなのです。
私は一応進学塾の講師で、志望校に合格させることが使命ですので、この生徒が文系科目にどうしたら興味を持ってくれるか考えますが、1人の教育者の本音としては、大好きな理系をもっと伸ばして将来に活かして欲しいと思ってます。
ここで私自身の話になりますが、自分もまさしくこんな子どもで、大好きな化学や数学は得意だったけど、特に英語や国語などの語学や社会の公民には全く興味が持てず、何度も学年最下位を叩き出した記憶があります。
それでも今現在医大に通っていて、英語や国語で必要なことなんて、英語は中学レベルの文法と単語力、国語に至っては小学生レベルの漢字と文法くらいで、ましてや高校で習った古文漢文なんて何の役にも立ちません。
しかしやっぱり、数学は高校で学んだ微分や積分が医学統計や公衆衛生において活かされるし、化学は薬物の作用機序などにおいて非常に活かされてます。
そして子どもと大人の大きな違いは、必要なことを見つけるための判断力です。加えていうなら1人で生きていくための危機管理能力です。
先ほども述べたように私は子どものころから全く政治・経済・社会というものに興味を持てず、ほったらかしにしてきました。
今でもそれほどその分野に興味はありません。しかし、税金・世界経済・政治などの根本の知識がないと、将来1人で社会に出て、必ず損をするだろうという危機感が最近湧いてきて、ようやく自習するようになりました。恥ずかしながらかなり遅いとは思いますが。
私が思うに、義務教育を15歳の中学までに設定しているのは、この9年間で「自分の好きなこと・興味が持てることに没頭する快楽を経験するため」、そして「16歳を超えれば1人で生きていくというある種の危機感が生まれだし、自分のために自然と学ぶ力が身につくため」であると考えます。
そしてもう1つ。いわゆる学習とは少し異なりますが、「社会で生きていくためのスキルを身につける場」だと考えます。
普段子どもたちと接していてとにかく違和感を覚えること。
それは10歳くらいしか違わない子どもたちなのに、自分の10年前とえらいギャップがある点です。
現代の日本の小学生は当たり前のようにスマホを持っています。私が小学生の時はキッズ携帯でしたし、私より10歳上の世代は小学生時代にようやくインターネットが普及するようになったくらいでしょうか。
つまり今の小学生は「ググる」ことが当たり前のようにできます。
正直言って、小中学校で学ぶことなんてググればすぐに出てくるし、2秒で調べられます。
もっとアナログな考え方でも、塾に行けば一通りのことは教えてくれるし、クモンに通えば、小学生で微分積分も高校レベルの英語だってできるようになります。
別に学校の授業なんて皆さんの言う教養を学ぶ上ではもう必要でない時代に、ここ十数年で入っていると言えるでしょう。
ではなぜ9年間もの長い間学校に拘束されなければいけないのか。
昔から小中学校で頻繁に問題となるのは、いわゆる「いじめ」ですよね。
私から言わせてもらえば、小学校でいじめが起こるのは自然なことです。小児精神学の分野になりますが、ヒトの人間としての脳(=精神)の発達は10歳程度で完成すると考えられております。つまり小学校高学年です。言い換えればそれ以下の子どもは精神的にはサル同様です。教わらなければ本能のままに生きます。
相手と比べて自分が高い地位に立とうとするのは動物の本能です。我々大人はその本能を仕事や成績などに置き換えますが、小学校低学年の子どもたちにとってそれは必ずしも成績にはなりません。その結果いじめや喧嘩が起こるのはある意味自然なことです。
ただこれをそのまま放置しておいては何も成長しませんので、先生が道徳を説くわけです。
つまり私は、小学校は人間としての精神力を鍛える場、そして中学校は精神的には大人として、将来社会に出て行くためのコミュニケーション能力や忍耐力など、様々な精神力を鍛えるために、部活仲間・友達と上手く生活を送って学ぶ場であると考えます。
にもかかわらず、高校でいじめ問題が発覚するのが日本の現代の大きな問題です。
学校の先生方には、勉強だけでなくこういった、大人としての生き方なんていうものを是非子どもたちに植えつけて欲しいなと思います。
プロセスを大切に、、、
皆さまお久しぶりです。
梅雨の曇り空が続いて何もかもやる気が出にくい時期ですよね。
受験生も春の模試が終わり、まもなく夏休み。
どうしても現実が見えてきてかなり悩む時期だと思います。
志望校を落とそうかな、
どうしたら成績が上がるだろうか、
このままで本当に大丈夫なのだろうか。
今日はそんな悩める受験生に向けて、この夏休みを成功に導ける方法をお教えします。
さて、私はとある塾で中学生を中心に講師をしているわけですが、先日中間試験がありまして、中間試験前に「100点を一科目でも良いから取ってきて!」と伝えました。
結果的にそのノルマを達成できた生徒は残念ながら1割にも満ちませんでした。
私からするとこれは予想通りの結果であり、数人の生徒が100点を取れたことに驚いたくらいです。
残りの9割の生徒たちのうち、ある成績優秀な生徒にこんな質問をしてみました。
私「次の試験の目標は?」
生徒「1科目で良いから100点を取ります!」
私「どの科目なら取れそう?」
生徒「んー、苦手な数学では望めないので、得意の英語なら取れるかもしれないです。」
たしかにこの生徒の英語の点数は94点で、他の科目より期待はありそうです・・・。
私「じゃあ英語で100点取るためにはどうすれば良い?」
生徒「(沈黙・・・)。勉強します・・・。」
塾に通う子どもたちのほとんどから同じような回答を得ました。
つまり
彼らは目標を掲げることはできるけど、その目標のために何をすれば良いのかを考えていないのです。
この生徒が次の英語の試験で100点を取るために最初にやらなければいけないことは、勉強ではありません。
重要なのは、100点を取るために何をすれば良いのかを考えることです。
多くの学校の先生方は、試験で100点を取るような生徒が10人も20人も出るような問題は作りません。せいぜい
1人か数人くらい。簡単な試験を作って平均点が異常に高くなったら、他の科目との兼ね合いがつかなくなりますからね。
その数人という狭き門にたどり着くのはそう簡単なことではないでしょう。
普段の授業でボソッと言ったことを出したり、教科書の中で生徒たちが絶対確認しないようなところから1問出してみたりして100点を阻止します。
では100点を取るためにこの生徒がすべきことは、
1.普段の授業で先生が言ったこと、黒板に書いたことを隅々までメモする。
2.教科書やプリントを隅々まで読み込み頭に入れておく。
ということになります。
これはほんの一例であり、この生徒は今回の試験5科目(国数英理社)ですべて80点以上を取って来れたのでこのような内容を伝えましたが、
もちろん、60点台とかがあったら別ですけどね。
今の例は学校の試験で100点を取るということだけに絞りましたが、こんな例ではどうでしょうか。
中3女子
第一志望の高校の合格水準(B判定)偏差値65
今回の模試の偏差値58でD判定
偏差値65まで5科目500点満点であと50点(合計395点)。
英語90点、数学75点、国語65点、社会70点、理科45点(偏差値48)、合計345点。
この時期の受験生の典型パターンで、日頃から勉強してきた国数英はまあまあだけど、サボってきた理社はボロボロ。特に理科は論外。
この生徒にも同じ質問
私「次の模試でB判定を取りたいね。どうしようか。」
生徒「勉強します」
私「どのように勉強しようか?」
生徒「とりあえず理科やります」
私「理科何点取る?」
生徒「理科の偏差値55まで上げたいです」
私「理科の偏差値55は点数でいうと何点?」
生徒「・・・。わかりません」
たしかにこの生徒の理科はかなり足を引っ張っており、理科の成績を上げるのは必須です。
ですが、理科を何点上げられるのかも分かっていないし、どうすれば理科の成績が上がるのかも分かっていません。
次の模試までに偏差値65に上げるためにはあと50点必要です。
ここからは会話形式で見ていきましょう。
私「模試の資料を見てみると理科の偏差値55は今回の試験で60点だね。ということはあと15点だ。」
生徒「60点なら勉強すれば取れそうです。」
私「本当に?じゃあ理科をどうやって勉強するの?」
生徒「・・・。勉強します」
私「答えになってないわ笑。理科の各大問ごとの点数を見てみよう。大問3の生物範囲は満点でよくできてるけど、大問4の物理範囲が0点だ。物理系は苦手?」
生徒「物理は本当に苦手です。」
私「じゃあ物理の大問で25点中10点でも取れるようにしよう。あとの5点は生物以外で頑張るしかないね。生物は現段階で満点だからこれ以上上げられないよね。これを維持しよう。」
生徒「はい、わかりました。物理の補講をお願いします!!!」
私「そうだね、明日から始めよう。さて、理科で15点上げても残り35点上げないと少なくとも偏差値65にはならないね。残りの科目で各科目10点は平均でアップしたいところだけど・・・。」
生徒「そう思います。」
私「本当にそう思うの?英語は今回の点数が90点だから、10点上げると100点を取るしかないね。」
生徒「そうです・・・。」
私「英語で90点を100点にするのと、数国社で各科目10点強上げるのはどっちの方が簡単だと思う?」
生徒「もちろん後者です」
私「当たり前だよね。じゃあ英語は現状維持で次回も目標は90点。国語は漢字と古文が取れてないからそこで15点アップを目指そう。現代文は現段階で結構点数取れてるし、上げるのが難しそうだからね。あとは数学と社会で10点ずつ。数学は関数が苦手なようだから関数を中心に、社会は地理がボロボロだからそこを中心に進めれば行けそうじゃない?」
生徒「はい!おっしゃる通りです。同じ10点でも得意なものよりも苦手なものの方が簡単に上げられそうですもんね。」
私「ようやく気づいたか。頑張っていこう!」
合計で395点がボーダーということは全科目で79点あれば間に合います。けれども395点の取り方は全科目79点でなくても良いですよね。極端な話、理科以外全科目100点で理科0点でも合計400点で合格です。
実際、8割合格の試験があって全科目8割くらいなんて人はほとんどいません。たぶん全科目8割取れる人は、そのうちの数科目で9割以上取っており、全体で85%以上取っていると思います。
目標は合格することであり、全科目合格点に達することではありません。合計で合格点に達すればいいのです。
何度も言う通り重要なことは、合格するために今自分が何をすべきなのか考えること。それが合格への近道だと私は強く思います。
これは受験に勉強に限った話ではありません。仕事でも恋愛でもなんでも、プロセスがしっかりとエビデンスのあるものでなければ失敗します。
今年の夏は、何事にも目標をもち、その目標達成に対するエビデンスのあるプロセスを持って、全力で打ち込んでみてはいかがでしょうか。
令和初の夏休みが、読者の方々にとって素晴らしいものになりますよう、心より願っております・・・。
勤務先での出来事、ここでも「ゆとってんなあ~」
今朝は東京でも今シーズン最も寒い朝となりました。北日本では雪も降り本格的な冬が到来しつつあります。
本日は教育関係のことについて。
初回投稿の際に申し上げた通り、私は学生生活を送りながら、教育関係の仕事に就いています。
塾の講師や家庭教師、さらには水泳教室のコーチなど多岐にわたりますが、私はこれらを「バイト」とはあまり呼びません。
もちろん学生ですので、正式には企業に務めているわけではなく、形態はアルバイトですが、子どもの教育に携わる「仕事」として、責任をもって働いています。
今日、お話したいのは、そんな仕事でのあるエピソード。
私の勤めている塾は、小中学生の中高受験を対象にした塾なのですが・・・。
その時は夏休みで、夏期講習ということもあり、私は普段働いてはいない校舎での10日間の出張授業でした。
あまり大きい塾ではないので、校舎には50代の男性校長と講師が2人、40代の男性講師と私と同い年の大学生女性講師、事務職の方が1人くらいですかね。そんな狭いコミュニティの中での10日間の勤務となりました。
教室と職員室も近く、他の先生がなさっている授業の様子も目と耳に入ります。自分の講義も他の先生方に聞かれていると思うと、慣れない校舎ですし、少し緊張もしました。
さて今回の話は、校長と女性講師のA先生が登場します。
A先生は、ものすごくエネルギッシュな方で、授業もどちらかと言えば「スパルタ」。しかし、ただ厳しいわけではなく、とにかく面倒見が良い。授業の合間をぬって、自習している生徒たちからの質問対応。授業に欠席してしまった生徒には、授業後に直接電話をかけ、その日やった内容と次の授業までの宿題の伝達。
小学生はかなりビビっている子も多かったですが、みんな必死にA先生について行こうとしている雰囲気がして、受験を控えた生徒達には最適な方だと私は感じていました。
校長の紹介も一応しておくと、長年この塾に務めていらっしゃる方で、授業はベテラン感のある、口数は少ないものの生徒を引っ張っていくスタイル。とにかく、大きな声を上げたりはしないものの、無言の圧力みたいなもので、課題をやってこなかった子や、小テストの結果が悪かった生徒たちは、それに圧倒されているようでした。
私がこの教室で勤務し始めて4日目頃、ある出来事がありました。
私も数学を担当していた中1のある女子生徒が、その日の全授業後、校長の耳元の近くで何かをささやいています。
それを聞いた校長は、すかさずその女子生徒を空き教室に、何かを話しているようですが内容は分かりません。
5分くらいして2人は出てきて、その女子生徒は帰っていきました。
私とA先生は、大人しかいなくなった職員室で何の話を彼女がしてきたのかを校長に尋ねました。するとこんな内容でした。
話によると、その女子生徒は「A先生が怖い。怖いがゆえに質問もできないし、授業にも集中できない」という内容でした。
私とA先生は、これを聞いてポカンとしました。
「それで??」
って思いました。
すると、校長はこんなことを言いだしました。
「A先生は、この生徒に申し訳ないと思わないの?一人の生徒がA先生のせいで、傷ついたんだよ?教師として態度を改める気がないの?」
私は「は?」と思いましたが、さすがの私もこの場面は自分の話をしているわけではないので余計な口は挟まず。
A先生はもちろん反論します。
「生徒の成績を上げて、志望校に合格させることが私たち教師の仕事です。中1の教室には15人ほど生徒がいるわけで、他の生徒たちは必死に遅れをとらないようにしがみついてる。私に叱られてもめげずに頑張る。その代わり、できたら私はその子を褒めます。もちろん、生徒1人1人それぞれの尺度で。人には得意不得意があって、もちろん全員が同じレベルに達することが目標ではない。まずまず私のことが怖いから、校長にそれをヒソヒソ話で言いに行くなんて、ずるくないですか?」
それに対して校長はこう話しました。
「私たちの仕事はサービス業。全員が喜ぶようなサービスを子どもたちに提供しなければならない。同じお金を払っているわけなのだから、平等なサービスを提供しなくてはならない。A先生はそれができていないから、今回みたいなことが起きた。彼女の耳打ちは『助けて』という内容。そんなサービスを提供する仕事ではない。」
私は、ここで本邦の現代教育の価値がどれだけ低いかを実感しました。
まずここは学校ではなく「塾」であるということ。生徒がまたはその親御さんが、勝手にお金払って、塾に通っているわけです。塾は無論、私立です。
サービスという観点で言うならば、同じお金を払って、全員同じ授業を受けているわけです。その授業で何を吸収できるか、授業後に質問にいったりして、どれだけその価値を高められるかは、サービスを受ける側にあるわけです。
A先生はもちろん、他の先生も授業の中で生徒たちに平等な授業をしないということはありません。最も優秀な子に合わせて進むわけでも、最もできない子に合わせて進むわけでもありません。
まず第一に、勝手にお金を払って塾に来ているわけですから、先生との相性が合わないのであれば、その先生の授業は受けないとか、塾を変えるとかすればいいわけですよね。
A先生は殆どの生徒から信頼されていて、厳しいと感じる子も多いと思いますが、みんな必死についていこうとしている。その気力がないのであれば、その先生とは合わないだけなのだから、何か動くべきは生徒の方です。
先生との相性が合わないとかで塾を変えたりすることを批判する方も、現代ではかなり多いですが、私はそうは思いません。勝手にお金を払って塾に通っているんだから、無駄なお金を払うよりは、何百とある学習塾のなかから、自分の合うものを探せばよい。
そして次にこの生徒の行動。
「中1にもなって、ある先生が怖いから他の先生に相談するって、どういうことですか?」
これが私のいう「ゆとり教育による最大の問題点」です。
自分のことを相手に向かって主張できないわけです。なんでも言いたいことがあるときは他人経由。
どうしても言えないのなら、親に塾を変えるように頼めばよい。
自分の主張や表現を自信をもって言えない人は、いつでも他人経由で伝えます。
「陰口」もその代表例です。
「○○さんが嫌い」ということを○○さんに直接伝えられないから、誰かほかの人に伝える。なぜ直接伝えられないか。それは自分の気持ちに正直でないからです。そして自分の考えに自信がないから。「ネット越し」というのもこれに当てはまりますよね。
ちなみにこんなことを校長が口にしました。
「その女子生徒がなぜ私に伝えに来たとおもう?それは信頼関係があるからだよ。A先生と彼女の間に信頼はある?」
多分これは信頼関係ではありませんね。明らかに、その女子生徒に校長が舐められているだけですよね。
「こいつ(校長)だったら私(女子生徒)のこと『可哀そうにー』って思うだろうし、こいつに伝えておけば、少しはA先生も優しくなるだろう」
という女子生徒の思惑に校長は完全にはまってますね。
まあ、この2人の先生の口論は30分くらい続いたのですが*1
この日は自分のことでもないので、私も全く口を挟むことはしませんでしたが、この校舎での勤務最終日、子どものいなくなった職員室で再び3人になる場面がありました。
私は荷物をまとめながら、
「そういえば例の女の子、あれからどうですかね。私の授業でも結局10日間、彼女はあまり発言とかも多くはなかったですけど・・・。
我々と合わないのならやめちゃえばいいと思いますけどねー。だってここは塾ですから。公立の学校じゃないですから。
もっと、分からないことがあるならアピールできる人になってほしいですね。これが『ゆとり』ですかねー(笑)
では、10日間お世話になりましたー。」
とだけ伝えて、教室を後にしました。
*1:笑
「○○○教育」が草食系を生みだした。
週明けの月曜日。どうしてもモチベーションが上がらないですよね。
私は毎週月曜日は、週末の暴飲暴食が祟り、おなかを下します。今日も昼食は学食で300円のかけそばです・・・。
さて前回の続き、最近の草食系若者について。どうしてこんなにも草食系と呼ばれる人間が増えてしまったのかを、現代の教育の視点も絡んて述べていこうと思います。
21世紀になってから、日本の教育は大きく変わりましたね。皆さんご存知の「ゆとり教育」です。
ちょうど現在30歳の世代あたりから始まった日本の教育方針ですが、私はこれが草食系を生み出した最大の原因と考えます。
「ゆとり教育」というと、やはり焦点を置かれるのは授業数の減少やカリキュラムの変更ですよね。
でも変わったことはそれだけではありません。
校内暴力、いじめ、非行、落ちこぼれ、不登校、自殺など様々な教育問題を解消しようとして、学校の教育に対する意識が変わってしまいました。
学校で先生に叱られて罰を与えられるというと、頭に浮かぶのは「廊下でバケツ」ですよね。一昔前の漫画やアニメでは、よくこんなシーンを見かけました。
「廊下でバケツ」は学校での罰の象徴でもあったはずです。
しかし、現代の日本でこんなことを行ったら、体罰ととらえられて、学校側は訴えられてしまいます。
子どもは悪いことをして、叱られて、反省して、大人になるはずなのに、現代では悪いことをしても大して叱られない。
つまり、しでかした本人は悪いことをしたという自覚がない。
結果そのまま社会に出ていき、上司に怒られる。
でも自分は何が悪いのかが分からない。
これが上司に「最近の若者は・・・。」と呼ばれる典型パターンです。
そしてもう一つ。最近の初等教育では様々な場面で競争を嫌います。ゆとり教育の出発地点となった90年代、それまで公立中学で行われていた偏差値による進路指導が廃止されました。
偏差値なんて単純なものではなく、もっと子どもの教育に自由を与えましょう、というわけですね。
ただ、この方針は単なる勉強だけにあてられたわけではありません。以来、「順位をつけない教育」が始まりました。
ときにそれは学校の最大のイベントでもある運動会にも広がりました。
最近の運動会の徒競走では順位づけがないようですね。頑張って走ってもみんな1位。「お手手つないでゴール」ですかね。
そうです。現代の教育にないものは「勝ち負け」です。
つまり負けず嫌いな人が激減した。言い換えると自分の意見を主張する人間が激減した。
幼いころから「勝ちたい」と思う気持ちが育まれず、自分の意見を伝えたいとすることに慣れていないのです。
幸い、私は幼稚園から14年間同じ学校に通いましたが、私の通っていた学校は私立でしたし、小中高と12年間男子校でしたので、とにかく競争させられて生きてきました。
小学校では2年生から、算数の小テストでクラス順位をつけられ、年3回のサッカー大会で最下位になると、試合後グランドに正座させられていました。中高では体育祭で勝利にこだわりすぎて怪我人が絶えず、中3から数学は席が成績順で決まっていました。
これでも私の出身校も現代の教育の風潮から、かなり勝負事や危険なことに対して、規制が増えました。先生から殴られることも中高では減ったし、棒倒しも体育祭で消えていった。それでも私の母校の教育は、ゆとり教育から最低限守られていました。
私はこの点において、本当に母校を誇りに思います。
今でも幼稚園時代からの友人と話を交わすことがありますが、どんな話でもみな、自分の主張を他人に伝えます。下らない話題から、仕事の話や大学の話まで。
みんな会話に真剣。
自分の意見を伝えることに対して本気。
だからどんな話をしても面白い。
少し母校愛を語る記事にもなってしまいましたが、
自分の意見をなかなか言えないあなた、少しでも変わりたいと思っていただけましたか?
または、こいつの意見はおかしい。と思いながらここまでお読みになったあなた、ならあなたはこの問題に対してどのように考えますか。どんな意見でも構いません。コメントぜひしてみてください。
長文お読みいただきありがとうございました!!